今週、2003年9月28日から7日間、Public Broadcasting System(PBS。NHKに似た構成で番組を提供するノンプロフィットのテレビ・ラジオ局)で「The Blues」というシリーズを放映している。マーティン・スコーセージを始め、7人の映画制作者達がブルースをテーマとした約90分のドキュメンタリーを作り、それを毎日一本見せているのである。ブルースの発祥、発達、その影響、歴史的背景、そしてカルチャーがクリエイティブなストーリー構成とビジュアルで質の高いドキュメンタリーシリーズとなっている。数年前まではストリング・チーズ・インシデント、現在はサウンド・トライブ・セクター・9のサウンドマンとして音楽ファンの間でも急速に知名度が高まっているスティーブ・ビーティーがブルースの世界に関与していた事は知らなかったが、「The Blues」のエピソードを2夜観た後で彼のインタビューを読んだ時、彼が音楽を求めて走り回ったミシシッピ州のアフリカン・アメリカンのコミュニティーの様子は、新鮮なイメージと共に容易に想像できた。

 カントリーブルース、ブルーグラス、ボニー・レイト、ストリング・チーズ・インシデント、サウンド・トライブ・セクター・9の音楽、さらにダライ・ラマの演説に至っては、そのルーツも様式も全く異なるものなのだが、スティーブの中ではこれらが共通の要素で見事につながっている。その要素とは、音楽のジャンルではなく、表現の背後にある意図の存在感そのものと、その正直さ、その強烈さ、カルチャーとしての歴史的な重要性などに対する彼の感受性、そしてアーティストの意図への共鳴なのだ。スタジオ録音でも、もちろんこれらの要素を十二分に凝縮した作品を創る事は可能だが、ライヴの瞬時的なインパクトには劣る。サウンドエンジニアとしてライブにこだわるスティーブにとっては当然の録音対象だ。彼自身、レコーディングの対象となるアーティスト達と同レベルの意図がその活動に明らかだ。

 私は、つい数年前までアーティストの動機と才能と技術にのみ注目してきた。その視点に意図が加わったのはグレイトフル・デッドを知った時だったが、スティーブがライヴ録音の魅力に取り付かれたのもデッドショーのレコーディングがきっかけだった。意図はバイブレーションでありエネルギーである。いわゆるジャムバンドの音楽が、この2年間ほどの間に社会性と政治性をより強く帯びるようになったのは、このマインド・インテント(心意)を含めて考えると、ポスト911テロと時を同じくしている事もあって、むしろ当然のことのようにも思われるのは私の独りよがりであろうか。バンドの息が長い事が、必ずしもポジティブな要素ばかりを持っている訳ではないが、3ヶ月、長くても1年の寿命で入れ替わりする音楽界のタレント達の意図を逆例とすると、ミュージシャンとファン、サウンドエンジニアが共に築いていく音楽シーンの行方を示唆するものなのではないかと思えてならない。


原文はこちら

「ワンマンレコーディングの音」
−世界の伝説的ミュージシャン達を録音するスティーブ・ビーティー。だが、彼は自宅に居たいのだ。
by D.オルソ

 ドアを優しくノックした後、長袖の下着に短パン、オーバーサイズのトレーナー、そして何かトラブルがあれば真っ先に飛び出して行きそうなニットの帽子といういでたちでスティーブ・ビーティーが入ってきた。これがBurnside On Burnsideを録音した男である。彼はボニー・レイトのアルバム、「Road Tested」のレコーディングツアーにもアシスタントとして参加。その他にもケラー・ウイリアムス、ストリング・チーズ・インシデント、プレシャス・ブライアント、ジェイコブ・フレッド・ジャズ・オッデッセイ等々を録音してきた。そして、彼のクライアントリストのトップにはダライ・ラマのライブ録音とサウンドエンジニアというクレジットが輝いている。

 「自宅の床を入れ直してるんだ」と彼はそのいでたちを説明する。決してスターにはならず、スティーブは星空を仰ぎ見る望遠鏡になる事だけで幸福なのだ。彼と話すのはまるで歴史愛好家を相手にしているようなもので、頻繁に話しかけのストーリーを中断して頭の中で正確な月日を検索していた。彼はそれを敏速に、声を出して考えながら、そのストーリーに関連する正確な時に辿り着くまで体操競技の選手のようにカレンダー上を跳ね回る。

 過去2年間、彼はサウンド・トライブ・セクター・9と共に旅を続けてきた。このバンドのショーでは、彼がサウンドを統括する。彼らが次のアルバムを制作する時は、彼が赤いボタンを押す。このバンドはそのプログレッシブな政治観とハイエネルギーに満ちたライヴで知られている。そのバンドについて尋ねると、「クリスタル信仰という表面的なものに困惑されなければ、このバンドの哲学は音楽を通じて人々を解放させようとするものだ」と彼は答えた。

 実に共感できる言葉だ。スティーブは10年前ポートランドで居を構え、彼の妻と出会い、ライヴ録音エンジニアとしてのキャリアを築き始めた。この仕事を始めたきっかけから訊いてみた。

SB:そうだな、1986年にグレイトフル・デッドのショーでライブ録音というものに出会った。あれは音楽だけじゃなく、体験やバイブレーションそのものを人々の間で広める方法として最も興味深く、斬新なもののひとつだと思ったよ。ありふれた感傷的な言い方になってしまうかもしれないんだけど、ライヴレコーディングそのものに夢中になっちゃんだんだ。高質のグレイトフル・デッドのテープを目指した僕の経験は、ノースカロライナ州のウインストン・セーラムにある僕の友達が経営しているバーでの一夜へと導いてくれた。Ziggy'sっていう店なんだけど。当時彼はそのバーを始めて半年ほどの頃で、そこには専属のサウンド・エンジニアもいた。そしてその店ではトニー・ライスっていうブルーグラスのスターがソロのショーをやっていた。そのサウンド・エンジニアはあまり上手くなくて、トニーが演奏できないくらいフィードバックがひどかったんだ。高いチケットを買って入った観客達が怒り出してね。3回か4回調整した後でも演奏できる状態じゃなかったんで、トニーが「ここでいったんショーを中断してサウンドマンに仕事をさせます。15分ほど経ってからどんな状況か見て、それでもダメだったらチケット代はお返しします」って事になったんだ。彼がそう言っただけで事態は800人の客が僕の友達と向き合う形になってしまった。彼には15分しか行動する時間が無い。僕は何かできるかやってみてくれと彼に頼み倒される事になった。全てのダイアルをゼロまで戻し、EQ全部をノーマルなセッティングに設定し直す事で僕はその危機から逃れる事が出来たんだ。あの日から僕はライブサウンドをやろうと決めたんだよ。あれがスタートだった。

DA:一夜にして実に多くのことを学んだんだね。

SB:僕が持っていた能力を発見する事が出来て、何をやりたいかが分かった事は確かだね。でも同時にすでに誰かがやっている所へ割り込んで行って、仕事をしながら学べる事は期待できなかった。だからどうにかして経験を積む方法を考えなければならなかった。そしてこのマーケットはタダ働きしないと経験を積むことが出来ない世界のひとつでね、必要なんだけど金が無いという人達にサービスを提供しなければならないっていう。だから奉仕するという形でないと経験が積めなかった。

DA:タダ働きからギャラを貰うところまではどうやって?

SB:何年もかかったよ。ウエストコーストにちょっと知られたアーティストがいて、キャリアの始めの方が終わりの方よりも知られていたという人なんだけど、彼と仕事をしていた時にハイエンドの機材を持っていたクラブでもショーがあったから、そうやって経験を積むことが出来た。観客は少なかったからちょうど良かったりもしてさ。

DA:ボニー・レイトのライブアルバムではエド・チャーニーのアシスタントも勤めたんだよね。それってどんな経験だった?

SB:ファンタスティックだった。エドは周りにいるだけで最もエネルギッシュでエキサイティングなエンジニアのひとりだ。彼の内部からアートがあふれ出してくるのが文字通り体感できるんだ。彼はボードの全てを知り尽くしている。彼はあのプロジェクトが実際に始る前から何をやりたいかがはっきり分かっていたから、それに関しては疑問を挟む余地もなく、細部に至るまで徹底していた。彼はそのレコーディングツアー以前にもボニーと仕事をしていた人で、その音楽にも精通していた。ドン・ワズがあのレコードのプロデューサで、彼とドンが長年一緒に仕事をしていた事もあったし。パートナーとしての彼らの関係は正にマジックだった。傍にいて学ぶ事が非常に多かった。毎夜彼の仕事が終わった後で、僕はボードを見に行って、特にドラムスのセッティングを見て勉強したんだ。不可視の要素というのがエドのトレードマークだと言ってもほぼ間違いない。あの「Road Tested」アルバムを聴いて分かるのはサウンドがソフトな事だと僕は思う。アルバムの基本になるものだというのは確かだね。特にライヴ録音ものではレアだと思う。エドは素晴らしい仕事をしたと思うよ。

DA:そこでの君の仕事はどんな内容のものだった?

SB:僕はオーディエンスマイクとその録音を担当した。これは'95年、'95年半ばの事だ。当時市場にあった最新録音技術はデジタル・マルチトラック・レコーダー、タスカム DA-88だった。僕達は裏方のワークルームでそれを何台も使い、これも当時の最新技術だったソニーのリール・トゥ・リール・デジタル・レコーダーのバックアップにしていた。ソニー 何とか348って言ったっけ。僕はDA-88の全てを学ぼうとしていた。分解の仕方、クリーンの仕方、バックサイドのワイアリングパネルの修理法、バップアップ機材全てを走らせてオーディエンスマイクをそれにつなげて、とかね。文字通り、経験としては最高のものだった。運が良かったと言うしかないよ。

DA:RL Burnsideの仕事はどうやって?

SB:90年代始めからミシシッピ州のトゥラホマにいるRLに会いに行っていたんだ。僕の友達、Jo Jo HermanはWidespread Panicでピアノを弾いている。その頃僕はジョージア州のアセンズに住んでいて、Jo Joもそこに住んでいた。彼は、オックスフォードにあるミシシッピ大学で、ミシシッピ・ヒル・カントリー・ブルースとして一般にられる老年のブルースアーティスト達と仕事をしていて、それに僕を紹介してくれたんだ。最初に聴いた瞬間から僕は完璧にあの音楽の虜になっちゃって。僕が最初に聴いたアーティストはJr. Kimbroという人だった。Jo Joが言った、「オレ達はこのオックスフォードでちょっとしたレーベルを立ち上げるんだ。これでオレが在学中に出会ったアーティスト達に恩返しが出来ればと思ってね。」あれはそれまで聴いていた音楽の中でも最高のものだった。とにかくぶっ飛んじゃってさ。あれはトゥラホマ市内のハイウエー4号線沿いにある、Jr.とRLがシェアしていたJuke Jointで録音されたJr. Kimbroライヴだった。僕はJo Joに訊いた。「いつ、どこで、どうすればこれが観られるんだ?」って。2週間後、僕達はその場所へ向かった。

当時、BurnsideとKimbroの家族達はハイウエー4号線沿いの長く広がる土地をシェアしていた。毎週、土曜日と日曜日の夜は、Juke Jointででっかいパーティーがあって、日曜日はフィッシュフライやパーべキューもあるような集まりだったんだ。ビールが1ドル、半パイントのムーンシャインが5ドル。車ですぐ行けるような所だったんだ。僕らが初めて行った時、肌の色が薄かったのは目に見える限りでも僕達だけだった。怖いと思えばとことん怖いと思えるような状況だったから、興味深かったね。あそこへ出かけて行って、Jo Joがみんなの事は知っていたから安心だったのはもちろんだけど、それでも、ね・・・例えば独りで踊ってたり、ハングアウトしていて、不意に自分がその地域一帯の人々の持つ要素とは全く離れた遠い存在だと自覚したりさ。だけど、その事はそれ自体が正に自ら持ち込んだ感覚なんだ。Juke Jointでは自分の気持ち次第でいかにその時間を過ごせるかを決める事が出来た。それはその場にいた人達みんなにも同じことが言える。いかにフレンドリーか、いかに社交的かは君次第、という訳だ。

あの音楽に僕は完全にはまってしまった。あの音楽と仕事できるなら、あのアーティスト達に会えるなら、あの音楽についてもっと学べるなら、あの音楽に関係して何かできるなら、何でもいいからできる限りの事をやりたいと決心したんだ。たとえそれが世界で最大のファンになる事、少しでも金に余裕があったらあの音楽をやっているいろんなところへ見に行くためにそれを遣う事、あの音楽が広がるのを目撃する事を意味しているとしても、僕はやりたいと思った。そして僕はそれから数年の間、それを実行したんだ。

その数ヶ月後、僕はポートランドに移った。Fat Possum Juke Jointツアーは'95年半ばに行われ、僕は国中それを追っかけた。その中の数ヶ所ではシアターでサウンドをやれるようにもなった。そして彼らはここポートランドのアラジン・シアターでショーをやった。その時のサウンドは僕がミックスしたんだよ。この時点でFat Possumの人達(Matthew JohnsonnとBruce Watson)とは親しい間柄になっていた。1997年、'97年の12月だった、フィラデルフィアでRL Burnsideを観に行って僕は充分に経験を積んだと自覚した。僕らはフィラデルフィアのNorth Star Barで飲んでいて、彼にライヴレコーディングをやろうと持ちかけたんだ。それから2年ほどの間、あれこれとアイディアを交換したね。実際に数回やろうとしたんだけど、RLの体調が悪くなっちゃって。テキサス州オースティンではキャンセルしなきゃならなかったギグもあったし。その後、絶対にやろうって話になって、RLの体調も数ヶ月快調だったから、2000年1月、この話を始めてから3年後にやっと実現させたんだ。バンクーバーに始ってL.A.まで、西海岸の主要都市を全て回り、それを全て録った。全部で7ヶ所だと思う。こうして僕らは一緒にやるようになって、それ以来ずっとそうしてやってきてるよ。

DA:最初にRLに会ったのはいつなの?

SB:'94年の1月に初めてあそこに出かけていった時の夜。

DA:彼はどんな人?

SB:RLは真のアメリカ的肖像だと言える。RLは超自然的な人。彼といる事、彼の存在、彼の現実・・・彼がいるところでは彼の周りにあるもの全てが輝いて見える。

[Fat PossumのBruceから電話がかかる。彼らは来月T Model Fordのレコードを録音する予定。]

SB:そう、RLは歩くストーリーブック、歩く文学の一作、そして彼自身そんな事は知らないって感じ。彼の人生は他の人が歌にしたりお話にして語るようなものなんだ。それがRLの生き方だ。彼は彼自身が本当にそうだと知る人物以外の何者とも考えてはいない。彼を導く外部の影響というものも無い。彼は何かになろうともしていない。彼は彼の音楽そのもの。彼の音楽は彼そのもの。

DA:ポートランドでは君の好きなブルースは見つかった?

SB:僕が望んでいたほどローカルのブルースシーンに関係する機会に恵まれていないのが現状だね。だけど僕の会社が「Purdie Good Cooking」というBernard Purdieのレコードを録音した事はあるよ。これはごく最近リリースされたもので、それに関するレビューは確かなものだ。その中にはポートランドのブルースとジャズのアーティストの多くがフィーチャーされていて、Linda HornbuckleやThera Memoryなんかも入ってるんだが、Theraの場合はジャズと言っていいね。ポートランドにはファンタスティックなローカルのブルース団体、The Cascade Blues Societyがあって、僕が観たブルース系のイベントでは素晴らしいサポートをしていた。

DA:ライヴレコーディングがポートランドにおける特殊な分野になっているのはなぜなんだろう?

SB:ライヴレコーディングはポートランド出身のバンドの多くには受けてないみたい。というのも、ライヴ録音は寿命の長さという点でひとつの声明とも言えるもので、バンドが長期のキャリアを築いて初めて意味を持つものなんだ。インデペンデントミュージックのカルチャー自体はポートランドでも盛んなんだけど、学校へ復帰したり、南のユージンへ移ったり、他のバンドに参加したり、何らかの理由でバンドメンバーが活動を止めたりするといったケースが多いんだ。ポートランドで盛んなインデペンデントミュージックの中では寿命が長いものがあまり無いと言えると思う。寿命が長い音楽活動の中でこそライヴレコーディングは真のニッチを見出せると僕は信じている。Burnside On Burnsideを例にすると、40年後に多くの人達がブルースのライヴってどんなものかを聴きたがるかもしれない。ライヴ録音されたものが真のインパクトを持つに至るには、それがある特殊なバイブレーションの代表すべきものだったり、文化的に保存されるべきものでなければならないと思う。

DA:長期に渡る活動の可能性を考えているバンドは君の仕事を必要とすると思う。

SB:絶対にそう思う。ライブ録音の遣い方として見逃されているのは、最初のスタジオ録音によるアルバムの後、または4、5曲をEPにまとめてリリースした後でやってみる事。もしバンドがお互いに話し合ったり個々のメンバーの考えとして、よしっ、やろうという事であれば、僕の個人的意見を言わせて貰えば、その時点でバンドが出来る事の中でもベストのことじゃないかと思うんだ。近所のパブ以外のどこかで演奏したいと思うのなら、ショーのひとつ、あるいは週末中にやったショーをライヴ録音して、フルのディスクを少数分プロデュースしちゃうといいと思うよ。

DA:ステージ上でやれることを証明できるから?

SB:そう、それにその地域のブッキングエージェントに大しては本当の意味での演出になるし、マネージメントに対してもそのバンドの真の姿を聴かせる可能性にもつながるしね。

DA:エンジニアとしてライヴレコーディングをする上で最も難しい事はなんだろう?

SB:そのバンドの音楽を知る事。

DA:ドラムとベースのマイクの調整とかじゃなくて、そこへ飛び込んで、そして・・・

SB:[首を振りながら]・・・そしてそのバンドの音楽を知る事。

DA:驚いたな。分かるけどね。そうか、オッケー、君は世界中で引っ張りだこだ。君の仕事は音楽や政治の世界で最も有名な人達へと導いた。一方で君には奥さんもいて生まれて間も無い子供もいる。さらに自宅の床を入れ直したりもしている。これら全てのバランスをどうやって保っているんだい?

SB:現状はフルスロットルって感じだな。実際の話、僕達は昨日ちょっとした口論をやっちゃってね。僕はもうダメ見たいな感じで「ここ数ヶ月間、休養らしい休養なんてなかったし、今日は床なんかやる気になれないよ」って言ったんだ。ここまで来る場合もあるって事さ。だけど、それと同時に、もし10年前に君が今日僕達がこうしてこんな話をしているだろうなんて言ったとしても僕は君を信じなかっただろうね。僕は今までに恵まれた幸運な出来事については永遠に感謝の念を持っているよ。そしてもしこれが最もハードな時期だとすれば、これら全ての幸運な出来事をどうにかしてバランスが取れるように僕が学ぶ必要があるということなんだろうね。6ヶ月の娘、快調なキャリア・・・どうやってバランスをとるか?とにかくやれって感じだね。睡眠時間を削るとか、深呼吸の仕方を覚えるとかさ。

DA:今の目標というものはある?

SB:基本的には僕自身、妻、そして娘の生活を支えていきたい。僕の目標はビューティフルでワンダフルな音楽をレコーディングするのを楽しみ、後世の人々に残したい。RL Burnside、Precious Bryant、STS9のようなアーティスト達は総体的な図の中で非常に大切な音楽なんだ。だから、僕のゴールとして考えられるのは、これらのアーティスト達がより歴史的な視野で40年、50年後も敬意とリスペクトをあるレベルで保てるように、彼らが望む形でいつまでも大切に思われるようにサポートできるようになる事、かな。

DA:ポートランドに住んでいる事が君にオファーするもの、そして君がポートランドにオファーできるものってなんだろう?

SB:ポートランドに住んでいる事で僕が恩恵を得ているのは、ここが素晴らしいホームベースとなってくれている事だね。僕らの話の中でもちょっと出てきたけれど、ローカルでの仕事は見つかっていない。だけど、妻と子供と犬達と馬はここでとてもとても幸せに住んでいる。僕のライフスタイルで言えば、ポートランドは美味いものが食べられて、人々と生活を分かち合って、知っていて光栄だと思えたり力づけてくれるような人達と付き合える所だ。ポートランド市内の15ブロックを代表する町内団体が与えているローカルコミュニティーを基本としたサポートのレベルについても、親近感を感じるものだしね。さらに、アメリカ国内でも西海岸のカルチャーは、社会的に見て、より充実しているというか、より啓蒙されるところが大きいというか。直接的な管理体制という視野ではなくて、もっと全体論的な見方と言ってもいいだろうし、ウエストのカルチャーが持つ全体的なインパクトと言ってもいい。仕事以外の点でポートランドが与えてくれる全ては好きなんだが、仕事関連でも何かやっていきたいとも感じるね。それが実現すれば最高だよ。ここには多くの音楽ファンがいると信じている。様々な異なった音楽ファンがそれぞれのシーンを持っている。ポートランドという街は、その点では常に優れた場所だね。ただ、ここにいる音楽ファンの質を満足させるだけのべニューが無いと思うんだ。

スティーブの会社:Real Image Recording

RLに関する情報はこちら:www.fatpossum.com

(訳 by wolf

無断での転載を禁じます。

copyright Onelove.com, 2003